偶然と必然

 現代の唯物論には、「偶然は認識されない必然にすぎない。」とする「決定論」と、「本質的偶然は存在する。」とする、「非決定論」が共に存在していて、決着はついていない。

 哲学者の間では、人間の「自由意志」の存在や「因果律の違い」が争点になっている。長い間、人間に「自由意志」が存在するとする哲学者が大勢であったので、「決定論」をとる哲学者は、「人間機械論」との批判を受けてきた。


  また、「Aという現象とBという現象が別々の因果律で起こっているなら、2つの現象の接点では偶然の現象が発生する」という「部分的非決定論」ともいえる立場の哲学者も多い。


 理論物理学にも双方の立場があり、やはり決着が付いていない。「シュレディンガーの猫」のパラドックスに代表されるように、量子力学は、「粒子と波の両方の性質をもつ存在」のままで、「多次元宇宙論」や「超ひも理論」「M理論」のような「決定論」や「量子は本質的に確率的存在」とする「非決定論」のいずれもが混在している。


 ボクは、哲学的考察と、多くの現代物理学の啓蒙書の解説により、「本質的偶然は存在しない。」と思っている。哲学者の論争の多くは、「偶然」と「必然」の語の定義(あるいは意味の範囲の解釈)の違いによるものが大部分で、「因果律の違い」による「偶然存在論」は、2元論で、認識できないほど「無限に近い多変量の因果律が宇宙」に存在していても、ただ、人間が認識できないだけで、「必然」が宇宙を支配していると考えている。 


 また、長らくブラックボックスであった「脳」の解明が進につれ、
「自由意志」の「自由度」はどんどん狭められている。「認識し、記憶と照合し、判断し、命令する主体」である「意識」も「そのすべてのプロセスが「別の主体」に認識された状態」では、「必然的過程」である。


 奇しくも、「観念論」である「宗教」に「すべては神の思し召し」と
の決定論が多く見られるのは皮肉なものである。仏教における「悟り」の内容も「決定論」を「体感」し持続させることである。 人間を苦しめる生・老・病・死を受け入れること(体感すること)で、人間を悩みから解放する宗教的技法である。自然の摂理や現実の現象を、認識主体の意識さらには心全体が正しく把握し、その運命や他人との共通認識が形成されることにより、人間の精神的苦悩が解き放たれることは、すべての宗教に共通している。(精神分析学の手法や一般道徳など、宗教を持たない人にも共通している。)


  誤解しないでほしいのは、「決定論」は、「運」を否定してないことである。語の意味として、「偶然」は「現代科学では認識されない必然」として、「実在している現象」を「表現したことば」であり、「運」は「個人的な偶然」すなわち、「ある人」に認識されなかった「偶然または必然」である。