自由

  広義の「自由」とは「制約がない状態」をいう。そして、一般的に「自由」とは、「ある個人の行動が、社会的制約を受けず、その人の思うがままに行動できるさま。」をいう。
 

    「自然人」としての人間は、一般的意味において、「自由」です。人を殺そうが、自ら命を絶とうが、突然走り出したり、叫んだりと、「思うがままに行動すること」ができます。しかし、「自然法則」や「遺伝」「本能」など、様々な「意識されない制約」を受けているので、 広義では、「自然人は自由」とは、いえません。
 

  現代の「社会人」としての人間も、「法律」や「道徳」、「経済的利害」「その他の人間関係」など、様々な制約の中で、生活しているので、完全に「自由」であるとはいえません。しかし、奴隷制社会の「奴隷」や、封建社会の「下級士官」「農民」「工員」「商人」に比すれば「諸々の自由度」は高いといえます。

  また、「ある人の自由」は「ある人の不自由」(自由の権利を奪う)という関係も存在します。たとえば、ある人の「人を殺す自由」が存在すると、ある人の「生きる自由」が犯されます。


  「自由」という言葉は、このように意味の広い言葉なので、「科学」や「哲学」「法学」などでは、「〜という条件の下での〜からの自由」のように制約の種類を、限定しないと、議論が空転します。

  また、この「自由」を巡って人類は、長い間、「政治的」「経済的」「文化的」闘いを繰り広げてきました。「自由」は、人々が、命を懸けも手に入ようとした、「幸福の条件」であるとともに、命がけで獲得しても、知らず知らずの間に、新たな「制約」のなかに消えてしまう、「幽霊」のような側面もあります。

  これも、「自由」の意味を、正確に認識していないことに主因があります。  「自由」であることは、「苦痛」である場合もあります。「自由」であればあるほど、「自分の判断」が要求され、「結果に責任」を伴うことになります。

  現代日本において、一般的「自由」を獲得する条件とは、「金」と「プライバシー」かと思われます。「資本主義社会」においては「資本家」や「地主」を初めとする「生活を維持し、一般的欲望を満たすのに十分な不労所得があり、安心して生活でき、家族を含め、いかなる人からも、干渉をうけない」人々であり、 「タレント」や「社長」は、「プライバシー」や「責任」という制約があって、いくらお金が儲かっても、現職であるかぎり、「自由」とはとてもいえません。

  一方で、適度に「プライバシー」や「小金」があり、「自由」な生活を送っているようにいわれる「独身貴族」であっても、「決められた時間は、会社に拘束され、自由を奪われている」ので、「制約の多い労働につかなくても、好きなことだけやって生きていける人々」ほどには、「自由」であるとはいえません。


  「資本家」や「地主」の「搾取の自由」を制限し、労働者の「自由な時間」「職業選択の自由」を増やして行くのが、目指していく社会の姿だと思います。「富の独占」は「自由の独占」を意味し、「資本主義」の目指す「自由」の意味は、「資本家の自由」「搾取の自由」であって、この「自由」は、多くの労働者が「自由な時間」を少しずつ犠牲にすることによって成り立っているのです。

  もちろん、「自由は幸福の必要条件」ですが「充分条件」ではありませんので念のため。だから、「お金とプライバシー」だけでは、「自分を取り巻く人々(ある意味すべての人類)の愛情や理性的満足感」が得られず、それらも含めた「幸福感」は得られません。資本主義社会では、むしろそれらの2種類の幸福の条件は対立する満足感として存在しています。

  「社会主義の定義」より「社会主義社会は資本主義社会の矛盾を克服した社会」であるから、来るべき社会主義社会では、「適度なお金とプライバシーが得られ、なおかつ多くの人から愛され、高度な知性と徳性と実行力を持った勤労市民」が人々の理想像として出現してくるかもしれません。これは、ある意味きわめて「普通の人々」で、宗教的表現でいえば、禅の「十牛図」にある、悟りを開き(我欲を律するすべを体得し)、酒瓶を下げて市場に帰ってきた「聖人」なのかもしれません。

  「自らのなりわい」が「自分の幸福の追求の必要条件となり、なおかつ、多数の人々の幸福の追求の必要条件になり、なおかつ、健康で、長生きでき、子孫が繁栄する必要条件となり、社会が進歩的に持続継続していく必要条件になる」ことが社会主義社会における人生の標準目標とされるかもしれません。