宗教  
 

   宗教には文化的なさまざまな側面があり、歴史的に果たしてきた役割もさまざまだ。しかし、教義の根本にあるイデオロギーは、観念的なものも少なくない。

 哲学としてみた、観念論の特徴は、人間の意識を哲学の「出発点」あるいは「本質」ととらえ、「主観」から、「客観」へのアプローチを試みている点である。従って、 個人の経験的事実や、机上の思索によって構成されたものが多く、科学的根拠をもたないものも少なくない。「実験」や「事実」の制約を受けない「自由」な思索から生まれるので、亜種も多い。

  近年では、「宇宙の諸定数は、最初から人間を生み出すよう決められていた。」という「人間原理」を曲解して、「唯物論」批判を展開する科学者や宗教家もいるが、「唯物論」か「観念論」かは、<哲学>で書いたようにあくまで「客観世界と 認識主体の因果関係」で定義されているので、「認識限界」や「人間原理」は、「唯物論批判」の根拠とならないのである。 

 「物質」と「精神」は、根源の異なる別々の法則に支配され、次元のちがうものであるとする、「二元論」や「多元論」も観念論の一種であるし、「宗教」も「哲学」としては、「観念論」である。 古くは創造主「神」の「観念的一元論」であった「宗教」も、近年では、科学の発達に伴って、「物質世界」と「精神世界」の二元論で科学との折り合いをつけているように思われる。

 ちなみに「唯物論」は「物質と精神は階層や次元の異なる法則に部分的に支配されているものの根源的には、「物質エネルギー系」の現象で、 人間科学の発達により、「二元論」はやがて一元的に説明できる時代がくると考えている。

 さて、観念論である宗教の場合、科学の発達に対して「聖典」の表現はそのままであるが、解釈を変えて、科学的表現との整合性を保っているが、矛盾も多く残されている。 

 現代の「宗教」は、科学的探求の比較的遅れている「心(精神世界)」の「教師」として、また、「冠婚葬祭」の「文化」として実社会に根付いているが、「精神世界」もまた、21世紀以後の科学によって、まもなく解き明かされる日が来ることと思う。

 その場合でも、宗教の果たしてきた社会的役割は、歴史の中で正当に評価されるべきであり、人類が「意思伝達手段(言語)」を手にしてから「人類共通の主観(その時代で考え得る最高の客観性をもった)」である「科学の目」を持つまでの間、「民族共通の主観」として「民族固有の文化(教育や政治)」として、重要な役割を果たしてきたのであり、現代でも、それを「信じる人々」の間で、あるいは、科学の遅れた分野や政治の遅れた部分を補うような形で、その役割を果たしている、生物学上、社会学上の歴史の必然であった。